マインドセット

幸福だと思える世の中になってほしいな

 

 

こんにちは寺田です

 

 

今回は、「幸福だと思える世の中になっていけばいいな」

 

そんなテーマでお話していきます。

 

母がですね、携帯の動作が遅いのと、料金プランを見直したいってことで、今まで使っていたアンドロイドから、iPhoneへ機種変更することになりました。auだったのをUQモバイルに変え、iPhoneはApple Storeで購入してsimだけ入れ替えます。

 

 

これを70過ぎの母が一人で出来るかというと、出来るかもしれませんが相当なストレスになるだろうし、私がもろもろ一緒にやりました。無事に変更も終わり、サクサク動く携帯に満足のようです。よかった。

 

 

両親の携帯プランなんて気にしていませんでしたが、蓋を開けてみると、良くわからない保証料金や、そんなに使わないのに自分に合ってないプランになっていて、それで携帯料金が高くなっていたので、

 

 

以下説明して

 

 

  • 「保証を外すと不安になるのは分かるが外そう」
  • 「その保証はなくても大丈夫」
  • 「ひと月1ギガも使っていないから32ギガプランで十分みたい」

と説明して、携帯料金が7,000円くらいだったのを毎月1,500円以内にしました。よかった。

 

 

 

何が言いたいかと言いますと、便利になったけど、使えない人たち、知らない人たちはカモで、も少し優しくしてくれませんかね?と言いたいです。言い方悪いけど・・・

 

 

ちょっと失礼な言い方かもですが。高度経済成長の頃に育った方たちに一部の方は、インターネットが生まれて飛躍的に進化するIT時代についていけていない人が多いのではないでしょうか。

 

 

別にそれが悪いわけでもなく残酷なほど進化したなといっているわけでもなく、ただ、そういった分からない人がいたら教えてあげるっていうのどう?って思うのですが、なんだかそんな親切な人が少ないように感じてしまうのは私だけでしょうか。聞かれたことだけを答える。それでは高齢者の方はもうもうお任せします、右も左も分からないのでとなってしまいます。それをみていてなんとも苦しい気持ちになってしまいました。そして私が質問するとめんどくさそうに回答するという。。。なんでよ。。。

 

 

いろんな人がいますから言いんですけど、要するに何が言いたいかというと、ここ日本で、みんなもう少し親切になれんかなと思うのです。(親切な人も多くいますが)

 

 

自分の知っていることや経験、知識をgive出来ない人は時々出会います。自分が苦労して手に入れたものを人に無償で提供したくないのでしょうか。しかし、与えられない人より与えることが出来る人の方が幸福度が高いです。

 

 

なぜなら、「ありがとう」と言われれることが多くなるからです。あリがとうと言われる事で幸福度少しでも上がりませんか?

 

 

幸福度が低いから親切になれないんじゃないか

 

満たされていない空のコップじゃお水を分けてあげられない。

 

 

よくレジで、ニコニコと接客している人と、めんどくさそうに絶客している人とを見かけます。そんな風に私が勝手に感じ取っているだけなのかもしれませんし、私の会社の仕事でもないので問題ありませんが、なぜ、親切に対応出来る人と、出来ない人がいるのでしょうか。

 

 

それはおそらく、自分が親切にされてこなかったんじゃないかなと、そして今でも親切にされていないんじゃないかなと思うんです。

 

 

家庭環境に問題があるのでは?とか、生まれ持った性格では?ということではなく、

 

 

その生まれ育った時代の教育システムで身についた、

 

 

「平均の中に入る」

「パーフェクトを目指す」

「ルールからはみ出さない」

「決まったことをやらないといけない」

 

 

とかそういう事が関わっていて、そんな教育で育った人達は、自分で考えて行動するより、どうすれば良い点が取れるかや、誰が指示を出すのか、その指示に従っていかに最短で誰よりも良い点と結果をだして認められるかを最優先に考える。そんな人達を量産してしまっているからではないかと考えます。

 

 

それが親切に出来ないこととどう繋がるのかって話ですが、

 

 

自分で何かを考えて行動出来な人は、リスクのない無難な事が一番だと考えています。

 

 

人に関わるとその無難が崩れるおそれがある、例えば信じていたのに裏切られたり、自分はこうしたいのに回りに合わせないと嫌な人だと思われそうで怖いだとか思いも寄らない事がおきてしまいます。なのでリスクのない無難なことをなるべく選択していきます。

 

 

それはつまり、変化を恐れすぎて、人と関わらないようにしているんじゃなかと思っています。そうすると次第に人と関わることが苦手になり、それによって他者との心を交わす数が減り、他者のことを考えなくても問題ない日常が生まれ、次第に相手のことを考えない事が当たり前になって、その方が楽で、さらにそんなことより自分が今自分にとっていい状態かどうかが最優先で、親切心の優先度が低い。そして気づかないうちに幸福度が上がらない。

 

 

こんなことになってるんじゃないかなと思っています。

 

 

自分のことだけ考えるのは私は賛成派で、誰かに合わせる必要なんてないと思っています。なになにすべきのこの「べき」みたいなものはどんどん変わっていけばいいと思っています。人と関われば幸福になれるのかというとそうでもない気はしますが、親切心が幸福度を上げる要素になっているとは思います。

 

 

ありがとうと言われると言われた方も嬉しいし、言った方も気持ちがいいですから。

 

 

ただ親切だとかgiveすることが出来ないと不幸なのかと言われればそれも違いますし、ではいったい幸福ってどんな状態なんでしょうか。

 

 

そもそも本当の幸福ってなんだ

 

 

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜で主人公のジョバンニが友達のカンパネルラに

 

「本当の幸いは一体なんだろう」

 

と聞きます。

 

そして、暗い中でも怖くないと言って物語は終わります。

 

本当の幸い、言い換えて、幸福とはいった何でしょう。

 

 

幸福とは?に答えはなく人それぞれで、これだと決まっているならみんな幸福でいられるはずです。そうならないのは、幸福がそれぞれ違うからです。では私が思う幸福とはなんだろうと言葉で言おうとしてもこれこれこうなれば幸福ですという負にハッキリ言えません。

 

 

幸福とはそんなもんです。

 

 

しかし私は、誰かの役立てた時はうれしいと感じます。要するに、関わることと、関わり方によって、少し幸福度が上がるようです。

 

 

私は、誰かと関わって見返りなしに与える事ができると、少しは幸福な感じになれるみたいです。

 

 

なぜ見返りなしの無償で与えることが出来るかというと、それはつまり

 

 

愛です

 

 

親切な心がないのは、そもそも愛が足りないのかもしれません。

 

 

しかし逆に、人と関わらない方が幸福度が高くいられるという人もいると思います。多様性の時代ですから、それも個性ですから言いと思います。ただそこに愛がないのはちょっとさみしい気持ちです。

 

 

気恥ずかしい言葉で書きましたが、

 

 

つまり、愛があれば幸福だと思える世の中なっていけるんじゃないかなと、社会もその愛が自然に湧き出てくるような手助けになっていかなくてな行けないんじゃないかなと思います。

 

 

心に余力がなければ人に親切になんかしてあげられないよと思うかもしれませんが、順番が逆で、余力は、親切の次についてくるものなのではないかなと、それが出来ると、みな幸福度が上がっていくんじゃないかなと思います。

 

 

なかなか正解が目に見えないので分かりにくいですが、身近な人へ少し親切にしてみる、余力がなくても。を試してみてはいかがでしょうか。

 

それではまた次回

 

さよなら

 

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明日もこんな世の中で生きていかなくちゃなんないんだろ!

そうなんだろ??

 

 

愛があれば怖い中でも怖くない

 

 

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